2020-09-04

三隈 1946


 
mikuma 1946
三隈は最上型の一艦として誕生しミッドウェー海戦時に操艦ミスから最上と衝突し
速度が出なくなったところを米軍機に発見されその攻撃で沈んでしまった残念な艦です
なのでこの攻撃で大破しながらもなんとか戦線を離脱し日本に辿り着いたとして
修理改装を受けたらどうなったかを考えて作る事にしました


今回は既存のキットは流用せずに作る事にしました
最上をはじめ未着手なキットは幾つか開封もせずに保管しているのですが
ネット上に多数流通している上級者な皆さんの作品の様には組み上げられないのは明らかです
なので全てジャンクパーツとスチロール製の家庭用品を使ったフルスクラッチです

三隈は沈没直前に撮影された写真が有名ですね
艦上構造物がほぼ全壊に至り浮いているのが不自然に見えるほど悲惨な状態でした
燃料タンクや主砲の弾火薬庫に敵弾が当たらなかった為に火災・誘爆等が起きなかったのでしょうか
そこであの時点で友軍が救援に駆け付け米軍機を追い払い最上共々曳航して本土に帰還出来たとしました

艦体は艦首方向へ延伸し艦幅も増やして15000tほどとして作っています
最上1944・最上1946と作りましたがそれらと同様に空母にしようと考えてます

日本近海に戦域を狭められた大戦末期に航空攻撃を主体に攻めてくる米軍に対して
紀伊・尾張を守る戦闘機は可能な限り集めたいはずです
対空戦闘に忙殺されて敵艦に砲撃を仕掛ける機会が得られないと言う状況が「不沈戦艦紀伊」でも多々有ります
なので少ない戦闘機を可能な限り長時間艦隊直援機として滞空させ紀伊・尾張に近付く前に対処したいはずです
そんな要求に応じようとするとどんな空母になるのか

しかし有力な技術者は旅順港に集約され
大破した陸奥や比叡を改修している中で資材も人材も不十分だった
そんな状況下で本土まで曳航されてきた三隈は艦体中央部の損傷が特に酷く
機関も修理するより新品と交換したほうが工数が少ないと判断されたとしました

紀伊・尾張を中心とした戦艦部隊を主力とした艦隊建立を目指していた架空世界で
巡洋艦は雷装を強化した改鈴谷型の量産が計画されていたとしました
しかし開戦以来航空機の活躍が目覚ましくミッドウェー海戦では主力の空母4隻を失った日本軍
米軍はエセックス級空母の大量生産を決め一年後には多数の空母を主力とした戦闘を仕掛けてくるのは明らか
紀伊・尾張が対航空機戦を十分に考慮した不沈艦として完成したとしても
魚雷を食らえば少なからず速度は落ち爆弾が直撃すれば自慢の対空火砲も沈黙する
戦艦部隊を主力とする艦隊を目指すとしてもやはり艦隊直援空母は必要と言う情勢になった
巡洋艦の建造方針も雷装を持たず対空砲を多数装備した鞍馬型の量産に変更となった

で解体した方が良いと見られていた三隈に建造中止となった改鈴谷型巡洋艦の未完成な艦体や機関を合わせて
艦隊直援航空隊を運用する空母に改修する事になったとしました
ここでミッドウェー海戦の戦訓から
帰還した航空隊の収容と補給を終えた航空隊の発艦を並行して行える空母にする事が求められたとしました


その結果
発艦用の飛行甲板の上に着艦用の飛行甲板を載せる二層甲板の空母になったとしました
また将来完成すると見込まれていた航空機はどれも大型エンジンを積んで重量が嵩み
発艦用飛行甲板も従来より長くする必要が有る事から艦体中央部を延長したとしました

まだまだ仮組みです
着艦用甲板の下は全て航空機の補給・修理の為の格納スペースに充てるとして
対空火器の弾薬庫や人員控室は砲架の下の箱の中に収めるとしました
煙突も発艦用飛行甲板の下から艦外に出し航空機格納庫の外壁に沿って登り排気口を上に持ち上げました

重巡洋艦の艦体の図面を元にして作られたと言う龍驤を手本としたが
十分な鋼材も集まらず作業員も未熟な者が多い状況で複雑な加工が必要な構造物は作れない
等々を考えて龍驤の様な上部構造物の拡幅等はしていないのですがどうなんでしょう

航続距離が短い紫電でも陸軍機でも着艦用装備を追加して本土の飛行場から飛来し
主力艦隊から離れた海域に居るのこの艦で補給を受けながら艦隊直援機として長時間運用出来る特務艦ですね


技術者不足・作業員不足・資材不足な横須賀で造られた戦時急造艦として
簡単な構造の図面を引いて手に入った鋼材をとにかく溶接して強度を確保した粗雑な艦様を目指しました


前部飛行甲板
組んだ時には問題無かったのですがその下のフレームが接着剤の蒸発に伴う挽けで歪んできてしまいました
頭痛いです・・・

-96

陸奥1946

陸奥1946(長門1946)

これは元々、武蔵喪失後に大和の僚艦とする為に長門を改装したという設定で作ったものです。
これを作り始めた頃は知識が浅くて、1946年までにこの改装が出来るかどうか考えていませんでした。
レイテ戦後即本土に戻され入渠したとしても、当時の状況で僅か一年でこんな大改装をするのは無理ですね。
そこで思い出したのが陸奥です。
柱島沖停泊中に起きた謎の爆発事故で沈没したという残念な最後。
これを事故直後の対応が奏功し沈まずに済み、修理改修が行われたらと考えました。
陸奥の爆発事故は第3主砲の弾薬庫で起こり、第3主砲は吹き飛び船体はそこで二つに折れたとのこと。
もしそこまでの破壊が起きず沈没を免れたとしても、これを元通りに復旧するのは相当な工期が必要でしょう。
そこで紀伊型建造決定に伴い建造中止となった大和型3・4号艦用に作られた装備を流用したとしました。
史実では信濃は建造途中で空母として就役させると決まり、信濃用に作られた主砲搭は終戦まで放置されていたそうです。


紀伊型が建造された架空世界で大和型3・4号艦は大和・武蔵に続いて建造が進んでいた。
紀伊型建造確定と同時にこの2艦の建造は中止され、準備されていた資材は紀伊型建造用として旅順へ送られた。
既に完成していた主砲塔・測距儀等の大和型専用装備は将来起こるであろう大和・武蔵の修理用に保存された。
これらを陸奥に流用すれば喪失した第3主砲塔とその周辺を新造するより簡単で火力の増強にもなるとしました。

高角砲は武蔵に追加搭載する予定で作られたが間に合わずに納入された物を流用したとして6基増やしました。
内火艇等は上甲板に配置すると主砲の爆風で破損してしまいます。
なので2番主砲塔の周囲に密閉式の格納庫を作り収納するとしました。
2番主砲塔の脇にボートを一つ置いてありますが、実際にはその甲板の下に有る格納庫に入れ、
張り出している甲板の裏に有るホイストを使って搬出入をするとしました。
艦橋と後鐘楼の間は終戦後に撮影された長門の画像を参考に床を張って25mm三連装機銃を並べました。
その床下は人員控室と弾薬庫で一杯でしょう。
長門改として作り始めたので長門の名残を残そうと意識して煙突周りは長門のままにした。
のですが存在しないはずな陸奥改なのだから煙突に付いている二連装機銃座は外し、
その下側に三連装機銃座を増やした方が重心も下がるし良いかと考え中です。
16インチ連装砲塔二基を外して遥かに重い18インチ三連装砲塔二基を載せた後部。
そのままでは当然浮力不足なので20mほど延伸して排水量を増やしたのですが、
その形状は長門型の図面を流用して作ったので大和型の様なオーバルテールにしなかったとしました。
艦首も浮力増進や速力増進の為に延長したが、こちらも翔鶴や阿賀野の様な幅の有るフレアは付けなかった。
真珠湾でサルベージされ最新艦と同様な装備・艦様を採用し変容した米軍の旧式戦艦達とは違い、
実績の無い新技術は採用しない改装工事担当者の思想が反映された艦様ということにしました。
私としてはこの艦尾の形状が好きなのでそうしただけなのですが。
では艦載機はどうするのか、を迷っています。
扶桑は狭い艦尾に水上機を載せていたようですが、それに倣うにしても18インチ砲の爆風対策は必須で
更にカタパルトとクレーンを付けたら艦尾が重たくなってしまいます。
18インチ砲への主砲換装に伴う艦体の補強による重量増は相当なモノなはずですので、
このままにして25mm機銃座を並べた方が主戦場が日本近海に狭められた末期感が有っていいかなと。

大和 1946

YAMATO 1946

史実では沖縄戦で沈没してしまった大和ですが、「不沈戦艦紀伊」では大破しながらもなんとか生還しています。
沖縄戦で大破しながらも旅順港に帰還し、修理・改修された大和改を作ってみました。


架空戦記「不沈戦艦紀伊」では、大和は沖縄防衛戦で大破するも生還しています。
史実では予備射撃指揮塔に米軍機の爆弾が命中して火災が発生し、沈没まで延焼が続いていたそうです。
で破損個所の修復と共に強化改修をしたらどうなったか。
先ず、大和型3・4号艦用に製造され納入されたが建造中止となり放置されていた主砲塔を一基追加としました。
射撃指揮塔や副砲二基を外しても後部の主砲一基分の重量増を補えないでしょう。
そこで高角砲二基を2番主砲塔の後ろに移動させ、強制排気装置を増設し煙突を縮小・軽量化したとしました。


これはタミヤの旧金型の大和のキットを元に作った物です。
作ったのはもう20年以上前の事です。
昨今の様に有用な情報がネットで簡単に収集出来る頃では無かったので今見ると良くない所が多々あります。

今後改修したいです。
先ずは3番主砲塔の位置を低くし、小さくしてしまった煙突を元に戻したいです。

武蔵の25mm機銃の射撃指揮官が残した報告書によると、
旋回速度が遅い25mm機銃座は米軍機の速度に対応出来なかったそうです。
その為、撃った弾丸の軌跡を見ながら機銃の射角を敵機の前面に飛ぶように修正して漸く命中出来たと。
これを実現出来たのは45発連射出来る三連装機銃だけだったそうです。
二連装や単装の機銃では射角修正している間に弾切れになるので全く役に立たなかったとの事。
これを根拠に25mm機銃は三連装だけを搭載する事にしたと設定しました。

最上1944

MOGAMI 1944
ミッドウェー海戦で大破した最上は修理・改装され艦体後部に水上機を多数搭載する航空巡洋艦になりました。
しかしレイテ海戦で西村艦隊に参加し、その水上機を活躍させる機会も得られず沈没しました。
そこで、水上機ではなく通常機を運用出来る飛行甲板付きの航空巡洋艦に改装された架空艦を作りました。


あくまで最上に見えるように艦橋より前は元のまま修復したとしました。
重くて場所を取るエレベータは艦中央部にあたる艦橋のすぐ後ろに一基のみ設置。
万一故障した場合の為にクレーンをその横に立てました。
出来るだけ着艦用飛行甲板の距離を長くする為に斜め甲板を採用しました。
煙突はその排気が発着艦に影響しないように左舷側面から斜め後ろ向きに突出。
左舷側は飛行甲板が大きく張り出している為25㎜機銃2基しか置けません。
なので、高角砲は右舷側にのみ配置し、その位置を高くする事で左舷側にも撃てるとしました。


あくまで「航空巡洋艦最上」への改装としたのでこんな形になってしまいましたが、
艦橋の周囲で出来る乱流を斜め前から受けながらの着艦は難易度が高いでしょうね。
更に着艦に失敗したら艦橋を回避しながら前方に離脱する必要が有り、低練度なパイロットでは無理でしょうね。
離艦用甲板は無いのでカタパルトで艦橋横から強制射出です。
当時の日本のカタパルトは性能が低く、米軍の様に装備満載した攻撃機の射出等は出来なかったそうで。
運用出来たのは零戦のような軽い機体のみでしょう。
20機程の戦闘機のみを搭載した艦隊を守る直援空母としての運用に限られると言ったところでしょうか。

龍驤と言う前例が有りますがこれも相当なトップヘビーです。
水線下にバルジを増設するなどの対策も必要ですね。


最上1946

MOGAMI1946
1944は「航空巡洋艦最上」に見えるように拘ってかなり無理が有る改装になってしまいました。
では完全な軽空母に改装したらどうなるかと作ってみました。
「不沈戦艦紀伊」では紀伊・尾張が建造された影響で大鳳以降の空母は建造されなかったとされています。
確かに当時の日本の状況で紀伊・尾張に続き鞍馬型重巡2隻と十六夜型駆逐艦等を建造したら?
2戦艦と並行して大型艦を作る余力は無かったでしょうし、戦艦主兵主義な作戦が遂行されたでしょう。
そして戦艦が真珠湾で全滅したので空母を主力に戦う事になった米軍の航空攻撃に押され対空戦力の需要が高まる。
なので大破して帰還してきた最上は艦隊直掩用空母に改装されることになったとします。
技術的には大鳳に採用された手法は全部投入され、航空攻撃に耐性が有る空母になるとする。
となれば大鳳に良く似た艦様になると考えました。




飛行甲板は対爆構造な高強度甲板を採用。
飛行甲板が重いのでトップヘビーにならないように航空機格納庫は一層のみで、飛行甲板は極力低く。
低い艦首に凌波性を付ける為に艦首はエンクローズドバウを採用。
煙突は艦橋と一体型にするところですが、隼鷹型で重心がズレて常に傾いてしまう欠点が露わになり不採用。
艦体側面から突出させる従来型を踏襲するとしました。


高角砲は左右双方に撃てるように飛行甲板と同じ高さに2基のみ設置。
25mm機銃も飛行甲板越しに全方位に撃てるように高めに設置。 
墳進砲を積む予定だったが間に合わず取り敢えず25mm機銃を設置。
艦橋や高角砲を右舷に纏めてしまったので重量の平衡を考えて前部エレベータは左舷寄りに設置。
後部エレベータは左舷の舷側が倒れて架台となる暴露式。
煙突も左舷に出しました。
艦載機搬入用クレーンも内火艇格納庫も左舷に設置です。
こんな大改装では完成するのは46年頃でレイテ海戦には間に合いません。
紀伊・尾張の活躍で日本本土へのB29による爆撃は大規模には行われずに済み、
新型航空機の開発が史実より早く進展したと言う事にして、
艦載機は45年に正式採用され艦載機に改修された震電改を搭載としました。


多摩1946

TAMA 1946
多摩はレイテ海戦に参加し米軍機の攻撃で破損し単独で本土への帰還を目指しました。
しかし米潜水艦の雷撃を受けて沈没してしまいました。
この雷撃に耐えて何とか横須賀辺りに辿り着いて修理改修されたらと作ったのがこれです。


マリアナ諸島もフィリピン諸島も失い、今後の戦域は日本近海になる事が明らかな状況下で、
かなり時代遅れな装備となっていた多摩に求められるのは対空・対艦戦闘力の強化でしょう。
最上型から外されたままになっていた15.5cm砲を搭載としたいところですが、流石に無理ですよね。
そこで、5インチ高角砲を主砲と換装したとしました。
そして阿賀野から外した雷装を搭載する事でより高性能な魚雷で戦果を上げる事を目指すとしました。


これもまた私の知識が浅い頃に作った物です。
五十鈴が同様な改装を受けて防空巡洋艦になっていた事も知りませんでした。
今になって見ると雷装を増強した上に高角砲四基は積み過ぎですかね。
艦橋も対空戦闘指揮所を付けて射撃指揮装置を追加して電探操作室も増設してと思い付くまま太らせてしまいました。
艦載機関連設備を撤去して軽くしたので、後ろ側はいいとしても艦首側は重過ぎでしょうか。
高角砲を一基外すか、2・3番高角砲を外して艦橋を煙突の直近にまで移動させる、
あるいは一番前の煙突を屈曲させて排気口を後ろにずらして、その上に艦橋を載せるか。
この旧式艦にそんな大改装を45~46年までに施す余裕が有ったのか。
悩ましい所です。


巡洋艦の上甲板はリノリウム板張りで木板張りでは無かった。
大戦後半には火災延焼対策でリノリウム板は外されていた等々有りますが、
全部木板張りにしたらいいじゃないか架空艦なんだからということで。

比叡1946

HIEI 1946

比叡は米軍との砲撃戦で操舵装置が破壊されたが機関等は無傷で、他艦に進路操作を任せれば自力航行で帰還出来たそうです。
これが艦隊指揮官に伝わっておらず、帰還不能と判断されて現地処分されてしまったのだそうで残念でなりません。
なので情報伝達が出来ていて他艦に曳航されてトラックまで帰還して操舵装置を修理して本土に帰還した。
として修理改装を施された比叡改を作ってみました。


最初はドイツのグラーフシュペーを模して
大和型3・4号艦用に作られながら使われずに放置されていた18インチ主砲を載せる事だけを考えてこんなになりました。
これでは内火艇等が主砲発射時の爆風で破損してしまいます。


なので大和に倣って後部に密閉式格納庫を作って艦載機・艦載艇は上甲板の下に格納するようにしました。
また、薄い鋼板を縦に並べて溶接しそれを外板で覆い構造強度で対弾防御力を上げる構造装甲で側面を覆いました。
これで16インチ砲弾程度なら砲弾の運動エネルギーが吸収されて艦内に飛び込むのを防いでくれるかなあと。


高角砲も防盾無しでは不味いので防盾付に変え、25mm三連装機銃座も防盾付を配置しました。
クレーンも大和型に倣って主砲から離れた後方に設置しました。
が改めて見ると、これでも主砲に近過ぎかなと気が付きました。
このままではカタパルトも主砲の爆風で即破損しちゃいます。



なのでカタパルトを主砲から離した位置に移動させて二つ付ける事にしました。
また、45年頃の長門に倣って煙突の周囲に床を張って25mm三連装機銃座を並べました。

ここまで主砲換装に伴う重量増対策は側面にバルジを増設して艦底を一層増設してと考えていましたが、
ピッチング方向の応力を考えていませんでした。
艦尾側は4番砲塔を外して軽くなっているので良しとしても、艦首側はそのままには出来ないですね。
比叡は大和型用に開発された機器の試作品を装備した実験艦の役目も担っていたとか。
なので大和型を模した形状の艦首にして水線長を20m程延伸し浮力を増強しました。
バルバスバウも採用して重量増や拡幅による速度低下を補ったとしました。

米軍のミズーリ型はその長い艦首に浮力が十分に無い為に、荒天時には高い波を乗り越えられないそうです。
高波に艦首が突っ込んで一旦見えなくなって、しばらくして海面下から現れてくるとか。
そうならないようにとこの比叡には大和型と同様の幅の広いフレアを着けました。
武蔵が艦首から沈んで行ったと言う報告書を読んだ大和型の設計担当技官は
もっと艦首に浮力を付けて置けば良かったと後悔したんだとか。
大和型の艦首フレアがあれほど大きいのは大重量な艦体に陵波性を得る為なんですね。
艦首に浸水した時にフロートの役目を果たす為でもあるんでしょう。
とすると私が作った紀伊はフレアの大きさが足りませんね。

日本版グラーフシュペーを作るつもりだったのに、必要な物を付け足していったら大和の縮小版みたいになってしまいました。